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ある日、職場で、自分と違う生き物に怒ってもしゃーないと思った。

ある日の職場でのこと。

 

他部署に提出を依頼していた支払い関係の書類がまだ提出されていないことに気づいたので、担当者へ「月末までに出してくださいね〜」とリマインドのメールを送った。

 

2日後、その担当者が私のところへやってきた。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。上司にチェックしてもらわなきゃいけないのに、あと数日しかないんですよ。出せないかもしれないじゃないですか。」

 

え。なんで私が怒られるのだ。本来この書類はあなたが自発的に提出すべきものであり、リマインドしたのは、私のなけなしの親切心だ。「あなたがリマインドしなかったせいでこのわたくしが提出できないのだから、あなたの過失ざます」という言い分なのだろうか。絵にかいたような言いがかりだな!

 

…と思ったが、私は

「申し訳ないです。もっと早くお伝えすれば良かったですね。なんとか月末までにご協力をお願いします。」

といい、丁重にお願いをした。

 

その日私はもやもやを抱えきれず、陰鬱とした雰囲気を漏らしながら帰りの電車に乗ることになった。あぁ、他者から向けられる怒りと、自分から発せられる怒りをうまく扱えるようになりたいよ。必要以上にヘコヘコ謝る自分も嫌だ。

 

残念ながら、このまま忘れて水に流すことはできないのが私の性分。この出来事について、いけるとこまで考えてみることにした。

あなたの都合を私が知る由もない

まず、支払い関係の書類は月末までに出してほしい、と私は事前に言っていただろうか。

 

おそらく一つ目の落とし穴はここにあった。私が担当者にリマインドしたとき、月末ルールについて職員は全員わかっているものとしてメールした。もしこの担当者が月末ルールを知らなかったら、私が急に言い出したことのように見えただろう。そしてそのフラストレーションを誰かにぶつけたくなったのかもしれない。

 

次に、担当者のいう「支払いをチェックしてもらう上司」がどういう人物なのかを私は知らない。激務すぎて期日までに捕まえられるかわからないってこともあるかもしれないし、もしかしたら長期の休みに入っているかもしれない。もしくはその上司がとっても高圧的で、担当者はチェックを依頼するのに相当な心の準備がいる可能性もある。

 

最後に、この担当者はどんな精神状態だったのだろうか。じつはこの担当者はこの月末で退職することが決まっていた。最後の出勤日が近づいている中、私のリマインドメールを目にしてしまい、「最後の最後に…」と思ったかもしれない。残りの出勤日が少ない中、他にやることが立て込んでいて、うっかり忘れていたかもしれない。

 

このあたりまで考えて、「私、この担当者のこと何も知らないな。」と思った。会ったその時に発せられた怒りのみを受け取り、言いがかりだな!などと思ってしまったが、あちらにはあちらの都合がある。そして、私にも私の都合があっただけなのだ。私にとってこの担当者の都合や性格や思考はブラックボックスで、「なんか怒ってるなこの人」という感覚のみで人を判断してしまったんじゃないかなと、少し反省した。

怒り~私に理解できるように説明せよ~

せっかくなのでもう一歩踏み込んで考える。

私は、他者から向けられる怒りの感情がめっぽう苦手だ。(得意な人なんていないように思うが。)誰かの怒りに触れると、必要以上に自分を責めたり、必要以上に弁明しようとしたりしてしまう癖がある。私にとって「怒」は喜怒哀楽の中でもっとも扱いづらい感情だ。

さらに今回は私にも怒りが生じたから、なおさらもやもやしている。

 

考えてみると、人が怒るときって「意味わかんねえ」とか「ありえない」という言葉がよく出てくる気がする。もしかして人は、自分が理解できない言動に対して怒っているんじゃないか。もっというと、意味が分からないって「自分だったらそうはしない」ってことなんじゃないか。

「そんなひどいこと言うなんて!」「浮気なんて絶対許さない!」とかはその典型。

「ちょっとは手伝ってよ!」とかも、自分だったら手伝うのに、という意味で手伝わない人を理解できないから怒っている。

 

今回の言いがかり事件も、担当者は「もっと早くいってよ!」という自分勝手な期待だし、私の怒りも「月末までに出すのは当り前じゃないか」という自分勝手な期待から生じている。

自分が期待するものと違う、理解しがたい誰かの言動に対して人は怒る。

だとすると、怒りとは独りよがりだ。だって、”他者は自分と同じように考えるはず”という前提に立っていて、そこからはみ出たものに対して怒りという感情を持っているんだから。

他者は自分と同じようには考えない

私は、「自分がされて嫌なことは人にしない」というしつけをされて育った。確かに人間関係構築の初めの一歩は、自分だったらどう感じるかを想像することだろう。

だけどこれも、”他者は自分と同じように考えるはず”という前提に立っている。少し間違えば「自分がされても嫌じゃないことは人にしてもいい」とか、「自分がされて嬉しいことは人も嬉しい」ってことになってしまう。軽ーく想像するだけでもめちゃくちゃ怖い。「自分がされて嫌なことは人にしない」は、正しそうな教えである一方、自分の想像できる範囲内でしか他者を想像できない脆さを内包している。

このしつけは強く機能し、私はこんな習性を身につけた。

 

・意味が分からない!と思うような他者の言動には怒る

・だけど、私は誰かに怒りをぶつけられたら嫌だから、私はむやみに他者に怒りをぶつけない

・自分がされて嬉しいだろうなということは、先回りしてやる

・誰かの悲しみや苦しみに自分を投影して落ち込む

 

これらは多分、私のいいところでもあるんだろうけど、私や他者を苦しめる側面もある。最大限、相手を想像して行動することは絶対大事なんだけど、自分と他者は本質的に違うので、自分の感情=相手の感情 という等式はなりたたない。というか、そう思っていた方が楽に暮らせるみたいだ。

 

それに人の感情は、その時のコンディション、置かれた状況、直近にみた映画、昨日の晩御飯なんかにも左右されているはずだ。誰かの感情は、私の知りえない因子が含まれ、アウトプットの一部として表出している。誰かの多少のいじわるも、私にはわからない因子が結合した結果かもしれないし、もやもやして漏れ出している私の陰鬱な気分も、自分すらわからない何かの結果かもしれない。

 

結局私は、私のことも、誰かの事も、何もわかってない。ひとつわかったことは、今ここで起きたさざ波だけですべてを判断できるほど、私は神人間ではないということだ。自分と違う生き物に怒ってもしゃーない。というわけで当面の間、怒りの感情に相対したら「ふーん。いろんなことが重なって、今あなたは怒ることになったのね。ま、私にはわからないけど」と思うことにしたい。