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ど素人なりに音楽と広報について考えてみました~広報の効果~

現在私は音楽家でもないし、マーケターでもない。だけど、音楽のこと考えているときに、大学時代に学んだことが、ぼわぁ~と噴き出るときがあります。

私には一応、大学でマーケティングを専攻していた時代がありました。それから、音楽一家のもとに生まれたというバックグラウンドもあります。だから、両者を結びつけていろいろと思いつくことがあります。

ただ、プロとしてマーケターをやっているわけではないので、自信をもって語ることはできません。プロとして音楽を今現在やっているわけでもありません。だけど、”この知識にはもっと明るい人がいるから自分は語らない”という姿勢、それは超もったいないぞ、と私は思います。浅い知識でもどんどん話して、面白いと思ってくれる人増えたらいい。

ということで、今日は、音楽家でもマーケターでもない私が、ど素人なりに音楽と広報についてつらつら書いてみることにしました。クラシック音楽家の広報に対する考察の入り口になったらいいなぁと思って書いていくので、どうかお付き合いよろしくお願いいたします。

※この記事は、以前別アカウントのnoteで公開していた記事です。(現在は非公開)

1.広報ってなに

いきなりですが、広報は愛のコミュニケーションである、と言われることがあります。私も消費者として実感している通説ですので、これをきっかけに話を進めていくことにします。
まず、広報における”愛”をわかりやすくお伝えするため、満を持して私の大好きな名探偵コナンの魅力を書き連ねてみます。しばしお付き合いください。

私にとって名探偵コナンの魅力は、なによりも”人間味”である。コナンや蘭、少年探偵団といったレギュラーメンバーはもちろんだが、各事件で登場する人物が(たとえ殺人犯であっても)魅力的で人間らしくて目が離せなくなる。このあふれんばかりの人間味は、名探偵コナンが持つ『”真実”はいつもひとつ』『真実=事実ではないかもしれない』という2つの哲学に基づいているのではないかと私は考えている。
真実がいつもひとつなのはまあ分かる気がするが、「真実=事実ではない」とはどういうことか。事件の犯人には大抵、誰かを殺したいと思うほどの動機(犯人にとっての事実)があるのだが、動機になった事象には、実は被害者の想い(真実)が隠されている、ということが名探偵コナンの世界でよく起きる。もしくは、凄惨で許せないような事件の犯人(読者にとっての事実)が、実は壮絶な半生(真実)を送っていたり。こういった事実と真実の間をつまびらかにし、犯人は、改めて自分の浅はかさ、軽率さ、そして犯した罪の重さに気づく…。短絡的な理解に終わってしまうことは、物事の本質をとらえていない可能性があるということ、これがコナンの世界でいう「真実=事実ではない」である。
事実と真実の認知に関する問題は、殺人鬼でない私たちにとっても日常的に起きている。実際、コミュニケーションミスが起きて相手の意図と違う意味で言葉を受け取ってしまう、という事は誰の身にも起きていることだろう。名探偵コナンは、相手の真意をくみ取ろうとしたのか?ということを常に問いかけており、読者は同情したり共感したりして、憎く思えた殺人犯にすら人間味を覚えるのだ。これが、コナンのもつ「真実=事実ではない」という哲学の魅力である。(これを最もよく表したのが、劇場版名探偵コナン14番目の標的」です、ご興味のある方はぜひご覧ください。)

名探偵コナンの魅力を伝える記事ではないのでこの辺にしておきます(笑)

さて、この文章を読んでくださった方には
私→♡→名探偵コナン
は伝わったかと思います。

そして実はもう一つ、この文章に含まれている愛があります。

それは、私→♡→この記事を読んでいるあなた への愛です。

私は、私が紹介する”名探偵コナン”という作品が、この記事を読んでいるあなたの、新しい発見、QOL向上、あるいは暇つぶしになればと思い、思考を巡らせました。論理、言い回しなど、私なりに読者への愛をもって、執筆というコミュニケーションをとったつもりです。これは、受け取り手への愛なんじゃないかと思います。

さらに、愛を語るうえでめちゃんこ大事なことを言っておくと、一方的な愛情ほど迷惑なものはない。です。
受け取り手の都合を完全に無視した広報は、よもや迷惑行為になりえます。別名、ありがた迷惑。私がつらつらと書いたコナンへの愛だって、文字は読み飛ばせるから多少マシではあるものの、もしも私があなたの目の前に座り、求めてもいないのにコナンについて突然話し始めたら、「うるさい」と思われること必至ですよね。

つまり広報活動に於いては、広く知らせたい”モノ・コト”を愛し的確に捉えるのと同時に、”知ってほしい相手”を創造するが大事であり、それは愛情を欠いていては成しえないことなのです。

相手は今どういう状態?私をどこまで知っている?などなど、相手のことをたくさん想定してこそ、真の愛あるコミュニケーションとなる、ということが、広報大前提としてあります。

2.あなたと私の間には

さて、ここに、いらすとやさんの力を100%借りて作成した画像があります。みなさんがもしこんなチラシを街中で見かけたら……。

かなりツッコみたくなりませんか?

「まず、真ん中の木製風の筒はなんだ。望遠鏡?新しいトッポ?お買い得って書いてあるけど、いくらなの?話題の商品って…なにが話題になってるの?」というように。

当然この画像を作った私自身は、これらの問いに答えることができます。

「この真ん中の筒は実は楽器で、オーストラリアの原住民族であるアボリジニの文化の中で生まれた、ディジュリドゥという楽器らしい。唇を震わせて音が鳴るという仕組みで、大きさは結構大きい。私の身長(147㎝)くらいはあるんじゃないだろうか。音色もなかなかユニーク。」という具合に。

(ちなみにディジュリドゥの動画はこちら。)

ここでディジュリドゥについて紹介したのは、みなさんと私の間に、この画像に対する”情報のギャップ”があったことを認知して欲しかったからです。

もしも、先の画像のようなチラシだけが存在していたとしても、そのチラシのおかげでディジュリドゥが売れることはありません。なぜなら、商品の名前すら記載してくれていないこのチラシは、コミュニケーションギャップを一つも解消してくれていないからです。

今、みなさんがチラシ画像をみた後の文章を読み進めたことで、そのギャップが少しは解消された、ということが起きました。これが広報の果たすべき役割であり、広報によって、利害関係者(届けたい相手)とのコミュニケーションギャップを埋めることが最重要とされるのです。

3.クラシック音楽の伝統的な広報の手段

ここまで、一般的な広報の概論の話を書いてきました。
ここからは、クラシック音楽の広報について考えてみましょう。

クラシック音楽は敷居が高い」ということが叫ばれ、叫んで叫び続け、声を枯らして、もはや誰も何も言わなくなって数年。(「敷居が高い」の誤用は置いておくとして)

私は、”敷居”という言葉に代わるのは、この”ギャップ”という言葉な気がしています。

クラシック音楽に詳しくない人に、コンクール名や大学名や師事した音楽家を一生懸命アピールしても、その権威や価値はほとんど伝わりません(先ほど、私たちにとってディジュリドゥがそうであったように)。

ですが、コンクール名や大学名や師事した音楽家という情報は、音楽家同士にとって重要なファクターであることは変えられない。

したがって、相手がどういう人かによって、伝える情報を変える必要がある、ということになります。

クラシック音楽は長い間、主な広報活動をA4チラシ両面1枚で済ませてきました。そしてその1枚にはありとあらゆる情報すべて記載してきたと思います。
編成、演奏曲目、出演者のプロフィール、会場へのアクセス、日時、場所、チケット購入の導線などなど。

これらは、演奏会に行くことを決めている人や、他のコンサートと比較検討している人、つまりクラシックに慣れている人にはありがたい情報なのですが、新規のお客さんにとっては、いまいちピンこない、むしろその情報量に圧倒され、”難しい”という印象を与えてきたような気がします。

この難しい文字列を正しく理解できる人だけが参加を許されているようかのような「無言の圧」があるのかもしれません。

また、SNSやメールが普及している今も、チャネルの特性に関わらず、チラシ一点突破の流れを汲む形での広報を散見します。これも本質的には同じで、演奏会の情報を集約したツイートや投稿は、もともとクラシックに興味がある人には充分フックとなり刺さるものの、新規の獲得にはつながりにくいのが現状です。チラシのような情報量が多い告知を求めている人と、そうでない人がいるのです。それに気づくと、広報の手段や形態、アプローチ方法、キャッチコピーの作り方などは一気に広がりを見せます。

チラシとは違う広報の手段ってなんやねん、という声が聞こえてきそうですが、伝統的な広報の手段からの脱却に一役買いそうだなと私が思っているのが、「消費者行動論」という学問です。

 

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