comolog

音楽、文化政策、好きな本など

【写真あり】コナンTHE MOVIE展レポート①【福岡会場】

こんにちは、comoです。

そういえば昨年末(!)に、コナンTHE MOVIE展に行ったことを思い出しました。ブログ用にたくさん写真も撮ってたのに、今日まで放置し続け、もう半年経つのね。今更ではありますが、こんな展覧会そうそうないですし、開催されない地域もありますから、せっかくなので思い出をまとめておこうと思います。

 

展覧会正式名称は「DETECTIVE CONAN THE MOVIE展 銀幕の回顧録(メモワール)」。2022年4月の東京を皮切りに、名古屋・石川・札幌・大阪・福岡・新潟・広島と回り、これを書いている今、すでに全会場終了!!巡回終了してからブログを書くという暴挙です!

私が参戦したのは福岡会場。博多駅アミュプラザの上にあるJR九州ホールです。同行者はなく、平日の昼間に完全に1人で乗り込みました!

入口にチケットカウンター。チケット(大人1500円)を購入。オリジナルの音声ガイドも撮りおろしってことだったので700円払ってお願いしたら、QRコードが印刷された紙を渡されました。これをスマホで読み込んで、特設ページから音声を聴くシステムらしいよ。感染症対策もあるし、慣れているイヤホンで聴けるのはいいかも!昔は美術館とかでごっついトランシーバーみたいなの渡されてたよねぇ。

さてさて会場の奥へ進むと…

いきなり青山先生の原画がお出迎え~!!


コナン君かわいすぎるってば。。
しばらく眺めるアラサー女性1人。。

導入ムービー&イントロダクション

左の扉を入るとすぐにスクリーンがあって、30秒~1分くらいのオープニングムービーが流れていました。聞いたことないセリフだった記憶があるので撮りおろしなのかな~!音楽は確かゼロの執行人の時のOP曲でした。

 

スクリーンのすぐ隣から、映画の名場面が描かれた新聞記事とイラストが並んでいます。作品ごとに展示があって、写真は「紺青の拳」のところですね。

さすがにすべての映画が紹介されているわけではなく、人気が高い作品、最近の作品が中心でした。「絶海の探偵」とか「ベイカー街の亡霊」とかはないけど、「天国へのカウントダウン」「時計じかけの摩天楼」とかはある。そんな感じ。

平次もしっかり写真に撮ってきました。青山原画の和葉ちゃんが美しい。。。

メインエリア

さていよいよ、メインエリアです。
メインエリア内は映像コンテンツも多いため、基本的に薄暗く、スポットライトで展示物を照らしていました。コナンの雰囲気と合っててよかったように思います。

メインエリア入ってすぐどーーーーん!

あー!これSNSで見たやつ!蘭になれるやつ!

さすがに1人で来たアラサー女は蘭になる勇気はありませんでしたが、周りの人たちは代わるがわる写真をとっていました。誰もいないこの写真を撮るのに苦労するくらいには人が絶えない感じでした。

 

私的には蘭疑似体験施設より、この劇場版レポートがツボでにやにやしてました。

f:id:como_wr:20230617004116j:image

 

「どのような物が爆破されてきたのか一部を紹介しよう。」と真顔で言う運営。コナン映画はダイハードにも負けない爆破映画であることが公式に認められました。

 

他にこんなのも。

この愛車コレクションも激アツじゃないですか⁉
車に詳しい人なら、この細部についてもいろんな感想が持てるんだろうな~。

 


さて、会場内には様々なミニアトラクションが用意されていました。

・「天国のカウントダウン」の名シーン、歩美ちゃんのカウントダウンに合わせてアクセルを踏むゲーム

・「から紅の恋歌」の「その手、離したら殺すで」に合わせてバイクのスロットルを回すゲーム

・「ゼロの執行人」の「僕の恋人はこの国さ」をコナン君視点で見られる謎のBOX

などなど。

 

 

まあ私はあんまり興味ない…というか普通に、でっかいスクリーンでそれらのシーンを見られることに感激し見とれてました(笑)一応やったけど。

ちなみに、会場のいたるところに、こういう等身大パネル的なものが置いてあってなかなかシュールです。各々好き勝手なセリフをしゃべってます。

会場をぐるっとまわった最後の方にある既視感たっぷり施設にも、この等身大パネルがあるんですけどね?

安室透だけ人形で、ジン・ウォッカベルモットがパネルなんですよ。

この説明パネルの写真もどういう世界観なの(笑)
黒の組織をおちょくってるよね?(笑)

安室はこんなにまじめな顔してるのに。なんかすごくアンバランスで面白かったです。どうしてこのシーンにしたんだろ。(笑)

 

メインエリアはざっくりこんな感じ。音声コンテンツは、展示ごとに1分前後のコナンくんのコメントが入ります。映画の概要を説明してくれるコナンくんもかわいかった。

 

まだまだ続くコナン展!

「やっぱり最近の興行収入爆上げ映画がメインかぁ。まあ楽しかったからいいけど~」くらいの感想でメインエリアを後にした私。このあと、コナンTHE MOVIE展の本気を見せつけられることになる…!

 

というわけで次回に続きます。

ある日、職場で、自分と違う生き物に怒ってもしゃーないと思った。

ある日の職場でのこと。

 

他部署に提出を依頼していた支払い関係の書類がまだ提出されていないことに気づいたので、担当者へ「月末までに出してくださいね〜」とリマインドのメールを送った。

 

2日後、その担当者が私のところへやってきた。

「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか。上司にチェックしてもらわなきゃいけないのに、あと数日しかないんですよ。出せないかもしれないじゃないですか。」

 

え。なんで私が怒られるのだ。本来この書類はあなたが自発的に提出すべきものであり、リマインドしたのは、私のなけなしの親切心だ。「あなたがリマインドしなかったせいでこのわたくしが提出できないのだから、あなたの過失ざます」という言い分なのだろうか。絵にかいたような言いがかりだな!

 

…と思ったが、私は

「申し訳ないです。もっと早くお伝えすれば良かったですね。なんとか月末までにご協力をお願いします。」

といい、丁重にお願いをした。

 

その日私はもやもやを抱えきれず、陰鬱とした雰囲気を漏らしながら帰りの電車に乗ることになった。あぁ、他者から向けられる怒りと、自分から発せられる怒りをうまく扱えるようになりたいよ。必要以上にヘコヘコ謝る自分も嫌だ。

 

残念ながら、このまま忘れて水に流すことはできないのが私の性分。この出来事について、いけるとこまで考えてみることにした。

あなたの都合を私が知る由もない

まず、支払い関係の書類は月末までに出してほしい、と私は事前に言っていただろうか。

 

おそらく一つ目の落とし穴はここにあった。私が担当者にリマインドしたとき、月末ルールについて職員は全員わかっているものとしてメールした。もしこの担当者が月末ルールを知らなかったら、私が急に言い出したことのように見えただろう。そしてそのフラストレーションを誰かにぶつけたくなったのかもしれない。

 

次に、担当者のいう「支払いをチェックしてもらう上司」がどういう人物なのかを私は知らない。激務すぎて期日までに捕まえられるかわからないってこともあるかもしれないし、もしかしたら長期の休みに入っているかもしれない。もしくはその上司がとっても高圧的で、担当者はチェックを依頼するのに相当な心の準備がいる可能性もある。

 

最後に、この担当者はどんな精神状態だったのだろうか。じつはこの担当者はこの月末で退職することが決まっていた。最後の出勤日が近づいている中、私のリマインドメールを目にしてしまい、「最後の最後に…」と思ったかもしれない。残りの出勤日が少ない中、他にやることが立て込んでいて、うっかり忘れていたかもしれない。

 

このあたりまで考えて、「私、この担当者のこと何も知らないな。」と思った。会ったその時に発せられた怒りのみを受け取り、言いがかりだな!などと思ってしまったが、あちらにはあちらの都合がある。そして、私にも私の都合があっただけなのだ。私にとってこの担当者の都合や性格や思考はブラックボックスで、「なんか怒ってるなこの人」という感覚のみで人を判断してしまったんじゃないかなと、少し反省した。

怒り~私に理解できるように説明せよ~

せっかくなのでもう一歩踏み込んで考える。

私は、他者から向けられる怒りの感情がめっぽう苦手だ。(得意な人なんていないように思うが。)誰かの怒りに触れると、必要以上に自分を責めたり、必要以上に弁明しようとしたりしてしまう癖がある。私にとって「怒」は喜怒哀楽の中でもっとも扱いづらい感情だ。

さらに今回は私にも怒りが生じたから、なおさらもやもやしている。

 

考えてみると、人が怒るときって「意味わかんねえ」とか「ありえない」という言葉がよく出てくる気がする。もしかして人は、自分が理解できない言動に対して怒っているんじゃないか。もっというと、意味が分からないって「自分だったらそうはしない」ってことなんじゃないか。

「そんなひどいこと言うなんて!」「浮気なんて絶対許さない!」とかはその典型。

「ちょっとは手伝ってよ!」とかも、自分だったら手伝うのに、という意味で手伝わない人を理解できないから怒っている。

 

今回の言いがかり事件も、担当者は「もっと早くいってよ!」という自分勝手な期待だし、私の怒りも「月末までに出すのは当り前じゃないか」という自分勝手な期待から生じている。

自分が期待するものと違う、理解しがたい誰かの言動に対して人は怒る。

だとすると、怒りとは独りよがりだ。だって、”他者は自分と同じように考えるはず”という前提に立っていて、そこからはみ出たものに対して怒りという感情を持っているんだから。

他者は自分と同じようには考えない

私は、「自分がされて嫌なことは人にしない」というしつけをされて育った。確かに人間関係構築の初めの一歩は、自分だったらどう感じるかを想像することだろう。

だけどこれも、”他者は自分と同じように考えるはず”という前提に立っている。少し間違えば「自分がされても嫌じゃないことは人にしてもいい」とか、「自分がされて嬉しいことは人も嬉しい」ってことになってしまう。軽ーく想像するだけでもめちゃくちゃ怖い。「自分がされて嫌なことは人にしない」は、正しそうな教えである一方、自分の想像できる範囲内でしか他者を想像できない脆さを内包している。

このしつけは強く機能し、私はこんな習性を身につけた。

 

・意味が分からない!と思うような他者の言動には怒る

・だけど、私は誰かに怒りをぶつけられたら嫌だから、私はむやみに他者に怒りをぶつけない

・自分がされて嬉しいだろうなということは、先回りしてやる

・誰かの悲しみや苦しみに自分を投影して落ち込む

 

これらは多分、私のいいところでもあるんだろうけど、私や他者を苦しめる側面もある。最大限、相手を想像して行動することは絶対大事なんだけど、自分と他者は本質的に違うので、自分の感情=相手の感情 という等式はなりたたない。というか、そう思っていた方が楽に暮らせるみたいだ。

 

それに人の感情は、その時のコンディション、置かれた状況、直近にみた映画、昨日の晩御飯なんかにも左右されているはずだ。誰かの感情は、私の知りえない因子が含まれ、アウトプットの一部として表出している。誰かの多少のいじわるも、私にはわからない因子が結合した結果かもしれないし、もやもやして漏れ出している私の陰鬱な気分も、自分すらわからない何かの結果かもしれない。

 

結局私は、私のことも、誰かの事も、何もわかってない。ひとつわかったことは、今ここで起きたさざ波だけですべてを判断できるほど、私は神人間ではないということだ。自分と違う生き物に怒ってもしゃーない。というわけで当面の間、怒りの感情に相対したら「ふーん。いろんなことが重なって、今あなたは怒ることになったのね。ま、私にはわからないけど」と思うことにしたい。

ドーナツと考える無の顕在化


次男が、無を顕在化させる哲学的ドーナツの食べ方をしていた。

f:id:como_wr:20221130020816j:image

そこに無い(穴の部分)ことを強調するかのような食べ方。

ドーナツの穴がないと、私たちはそれをドーナツと認識することができない。

着目してほしい点は、「無いことを表現する手段」が「本当に何も無い状態の再現」ではなく、「穴の周りをちょっと残す」にあるという点である。

残されたドーナツの実体部分が、無い部分を顕在化することによって、それはドーナツ、つまり「穴の空いた小麦粉の揚げた塊」であるということが表現されている。「在」をもってのみ、人々は「無」が存在するように感じられる証左である。

無い部分と在る部分の共存によって、ドーナツは完成する。

 

実在している時点で、本当の「無」の表現にならないが、無を表現するには、「在」が必要とされるという話でした。

アラサー大卒がTOEICを初めて受けた話

こんにちは、comoです。

私が高校生・大学生のときは、英語能力の資格と言えば、まだまだ英検一強の時代でしたが、最近はTOEICが人気ですよね。就活で重視されるのもTOEICな場合が多い模様。私のライフステージが変わったのもあって、目に入るのはもっぱらTOEIC

TOEICとは無縁な生活を長らくおくっていた私ですが、アラサーになってTOEICにチャレンジすることを決意しました。きっかけは、職場に英語喋れるTOEICホルダーが多かったのと、希望していた就職先の履歴書フォーマットにTOEICの点数を書く欄があったから。たったそれだけの理由でしたが、TOEICの勉強はめちゃくちゃ楽しかったしまたチャレンジしたいと思っているので少しご紹介します。

comoの英語力

振り返ってみれば、私が英語を勉強した思い出と言えば、中学3年の時に英検準2級を取得しオーストラリアに2週間行ったのと、高校3年生の受験の時くらい。センター試験も7割くらいだった記憶があります。中学英語はとても得意だったんですが、高校英語はピンと来ず、軽く挫折。結果、平々凡々な英語力になったと思います。

中学時代のオーストラリアでのホームステイ時も、練りに練ってきた会話パターンでほとんど乗り切れてしまい、期待していた即時応答力はあまり身に付きませんでした。ゼロから自分で考えた英会話として唯一記憶があるのは、「Have you ever been to here?」と「I would like to send this postcard to Japan.」くらい。まあそんなもんです。

洋画も堂々と吹き替えで見てますし、ビジネスで英語を使ったこともない。自慢することではないですが、本当によくみる日本人の英語力平均ドンピシャだと思います。

勉強に使ったもの

TOEICを受検するにあたって、私が主に使ったのは「abceed」というアプリ。

アプリをダウンロードして最初にオンライン模試を受けると、現在の予測点数と苦手分野がわかり、目標点数の設定に応じて問題を出してくれるという優れものです。

無料会員登録をすると最初の数日間は有料プランを使わせてくれるのですが、あまりにも有料プランの予測点数精度とUIがすばらしかったので、無料期間終了後に有料プラン(6,600円/3カ月)に入会しました。

とにかくこのアプリが最強。数ある英語参考書から問題が出題されるので、何冊も参考書買うくらいならこのアプリ入れとけばOKって感じです。

特にリスニングの勉強って、本についているCDとかだと聞いたことある問題ばかりになってしまい、本当に実力が上がっているのか不安でした。TOEICはリスニングが半分、リーディングが半分の配点ですから、リスニング対策はめちゃくちゃ大事。その点、ガンガン新しい英語を聞かせてくれるabceedはとても素晴らしいアプリです。

「おすすめの問題」というボタンをタップすれば、アプリが自動的に絶妙な難しさの問題を出してくれる。最初は間違うのが嫌で苦しかったのですが、だんだんマゾヒズム的快感に変わっていきました(笑)

abceedの欠点はというと、リスニングの練習時にイヤホンを使っていたので、本番の環境に若干とまどったこと。耳に英語以外の雑音が混じったり、細やかな発音を頼りにしすぎて聞き逃したり、ということがありました。許されるなら、ノーイヤホンで使用した方がいいかもしれません。

それから、単語演習は選択肢がある問題ばかりなので、予測で正解できちゃうところも欠点ですね。なんの選択肢もなくズバッと単語の意味を答えられないと、時間が勝負となるTOEICでは厳しいんじゃないかな。私は単語に関しては、TOEIC界で有名な「金のフレーズ」を使いました。

 

 


それから「ボキャスタ」というYouTubeチャンネルでゲーム感覚で補強していました。

結果はというと

3カ月の勉強を経て、獲得した点数は、、、

f:id:como_wr:20220828010916j:image

685点!

リスニングが350点、リーディングが335点。

見てお分かりの通り、得点源とすべきPart2とPart5で躓きまくっています。
時間配分としては、本当にギリギリで最後の問題まで目を通せた、という感じでした。

どうでしょう。まあ初めての受検なので、良かったとも悪かったとも言いづらいのですが…(笑)なんとか700超えたいなと思っていたので、正直悔しさが残ります。

でも、全く勉強していなかったブランクを考えれば、TOEIC中級程度までもってこれたのはうれしい!

TOEICでは、学校の英語教育では習わないようなビジネス上のやり取りが登場するので、大人になって受検するのがおすすめです。社会人であれば「こういうことあるよね~!」という場面のオンパレード(といってもTOEICの世界観ではトラブルが多すぎるけど)で、リアルに場面を想像しながら問題を解くのと、学生の時に受けるのでは、心象が違うんじゃないかなと思います。

ちなみに、TOEIC L&Rテストは、どこまで行ってもインプットの練習にしかなりません。語彙は多少増えるかもしれないけど、相変わらず喋れない、書けないので、英会話を楽しみたい方にはあまりおすすめしません。英文を読む必要があったり、ビジネスメールで英語を使ったりする方にはかなりおすすめですが。

そんなわけで、最近は会話力不足を解消するために、オンライン英会話を検討し始めています。またそれは追々記事にできたらいいな。

 

「人が人を助ける理由に論理的な思考は存在しねーだろ」を考えてみる。

タイトルの通り、今日も今日とて名探偵コナンの話から始めますすみません。

私がコナンで最も好きなシーンのひとつ。

なんやかんやあった日、殺人犯の命の危機を助けてしまった蘭ねーちゃん。(しかも同じ日に2人も)
自分があの時殺人犯を助けなければ、被害者は亡くなることはなかったと思い詰める蘭ねーちゃん。
しかも殺人犯から「思い(殺人)を遂げさせてくれた彼女に感謝」とか「どうして俺を助けた?」とか嫌味を言われる蘭ねーちゃん。半ベソである。

その時、新一が放った台詞。

「人が人を殺す動機なんて知ったこっちゃねーが、人が人を助ける理由に、論理的な思考は存在しねーだろ?

言わずと知れた、NYのゴールデンアップル事件である。(コミック34〜35巻参照。)初めて読んだのは小学生くらいだったと思うが、読む度に当時シビれた記憶が蘇る。

人を助ける、幸せにする、というと聞こえがいいが、私は手を差し伸べられても、素直に助けてもらおうとしなかったこともあるし、私が差し伸べた手を弾き返されたこともある。

「人を助ける」ってどういうこと?もし仮に「正しい"人の助け方"」があるんなら、それはどういう方法なんだろう。

人を助けることについていろんな人に聞いてみた

私の周りには、誰かを支援する仕事の人が多いので、手当たり次第に「助けを拒否された時」について話を聞いてみた。回答は以下の通り。

Aさん「相手が求めている時に助けることが大切」
Bさん「助けることは自己満足でもいい。手を差し伸べないよりずっといい」
Cさん「ある程度は助けずに見守ることが、かえってその人にとって最短距離になることがある」
Dさん「選択肢の1つを提示するつもりで手を差し伸べるから、フラれても気にしない」
Eさん「comoからは不幸に見えるかもしれないけど、その状況のままでいたい人もいる」
Fさん「最終的にその人が幸せになるんなら、必ずしもcomoの助けにのらなくてもいいでしょ」

ふむふむ。
どれも的確で大いに納得させられる。

ていうか皆さんやはり普段からよく考えていらっしゃるのだろう。
支援って奥深い。それぞれ深掘りする必要がありそうだ。

私の頭の中の(脆弱な)カント

例えば、子どもが1人で道端で泣いていたら、どうしたの?と声をかける。白い杖をあげている人がいたら、何か手伝いましょうか?と声をかける。それはもう私にとって脊髄反射的なことだ。確かに論理的な思考は存在しない。私の頭の中のカントさんが「そうせよ。」と命じるからだ。蘭だって、無条件に殺人犯を助けたんだよね。

でも、私の脳内カントさんは非常に脆い。助けねば!と思った相手に迷惑がられると、助けようと思った気持ちって迷惑だったのかな…などとクヨクヨした思考が生まれる。私が「声をかけよう」と思ったのは、実は私のためでしかなかったということをまざまざと見せつけられるのである。自分の助けを喜ぶと思ったか?喜ぶだろうと期待していたから、ショックなんだろ?という自分が現れる。

残念ながら新一は、人助けに失敗した時の心の持ちようについての名言は残していない。というわけでもう一度、カントさんを訪ねる。

善は見返りを求めてはいけない、と彼は言う。そして、その結果その人が助かるかどうか、自分が助けることができたのかどうかに囚われるのだって、カントさん的にダメらしい。効果・効能が行為の動機になってちゃ、それは自律ではないんだ、カントさん的には。

私はカント哲学が結構好きだけどいつも定言命法に従える私ではない。欲求はあるよ、人間だもの。見返りが欲しいわけじゃないが、自分にできることがありそうなら、手伝いたいと思ってしまう。なまじっか自分が助けたせいで、その人や周りが苦しむことになるのは避けたい。

助けられる側の都合

待て待て。助けられる側にも都合はある。
助けられる準備が整っていないかもしれない。助ける側の勝手な道徳心押し付けられても、助けられる側だって迷惑ですよ。助けられる準備が整っていない場合にはまず、助けられる準備をするための、別の助けがいる。私は妊娠中、たくさんの人に助けられた経験がある。が、最初は到底受け入れられず、自分が弱者扱いされるのが不本意で泣いたこともある。

自分の体のことだから自分で解決したい。
私を見くびらないでよね、もっとできる。
今の状況で満足してるんだから援助不要。

こんな気持ちがあるうちは、助けられるのなんてまっぴらごめんなわけだ。気持ちが変わるには時間を要するし、まるっと受け入れてくれる人に接触し続けないと、自分を受け入れることはできない。しかも、あえて助けを求めない姿が傍から見て強がりであろうと、それで本人が幸せならまあそれでもいいって話でもある。

助けたい相手が助けを必要としていないと助けることかできないのが実情だ。助けたい気持ちだけで助けられるもんだったら苦労はしない。

持てる知識をいつ使うか

もうひとつ、「人を助けること」で思いつくコナンのシーンがある。

松茸狩りにやってきた少年探偵団。光彦と哀ちゃんがみんなとはぐれてしまい、灰原が足首を捻挫した時のことだ。咄嗟に光彦がタオルを使って包帯を作り応急処置。「コナン君がボクにこうやってくれたんです…彼、何でも知っててスゴイですよね…」という光彦。(かわいすぎる)

そこで灰原さんのこの台詞。

「バカね…大切なのはその知識を誰に聞いたかじゃなく、どこでそれを活用するか…今のあなたは私にとって最高のレスキュー隊員よ!ありがと…」

はぁー。哀ちゃん素敵。(コミック28巻参照。)

光彦は自分の知識を適切な時に使うことができた。これもまたひとつ大切な能力だ。持っていても使うことができなければ意味がないし、相応しい時ってものがある。こんな支援がありますよーと言っても、それが耳に入る時と入らない時があるのだ。相手の様子を受けて、響くタイミングで伝えることも重要そうだ。助けられる側の都合もさることながら、助ける側の知識の使い方とタイミングにも左右される。

何もしないという援助

興味深いのが、前述の「何もしないで見守る」というCさんの意見だ。何もしないというのは、見捨てるという意味ではない。結局、自分で見つけた道だけが本人を救うのだ、という考えである。宿題しなさい!と言われてやる宿題より、自分から始めた宿題の方が大抵楽しくやれるもんだ。

この道は自分でみつけたんだ!と思うことができれば、自分でどんどん進むことができる。誰かに指示された近道を嫌々進むより、遠回りでも自主的に進んだ方が、最終的に早く解決に向かうこともあるよね。そして自主的に動いていれば、必要な助けを自ら望めるようになる。その時に、適切な援助ができればいいんじゃないか。

なるほど、エンパワーメントである。なんだかかなり正解に近そうだ。支援者は、求められた時に力になれるよう準備をしておくことが、なによりの支援となるってことか。

ただしこれは、蘭ねーちゃんのように一刻の猶予もないような状況ではなかなか取れない選択だ。それに、課題を認識し、向き合おうとしている人にのみ有効そう。頑張りすぎて壊れてしまう人もいる。うーん、その塩梅が難しそうである。正確な見守りができないと。

人助けに関する結論

結論と言いつつ、こんな大きな問いを演繹し続けてしまったので結論なんてない。だが、文章には結論が必要なので考えをまとめてみよう。まず、とっさに助けたいと思って、助けてしまうのは人間の根源的な「善」なのかもしれない。だけど、とっさの出来事ではない時には、助けたいという支援者側の気持ちの前に、被支援者の助けられたい気持ちがあって、はじめて人を助けられるようだ。

ましてや、私1人の力で誰かを救おうなんて、相当難しいし、助けられると思うなんて大変おこがましいことだ。

それを頭に刻み込み、手を差し伸べてみる。それでも拒否されるのなら、今がその時ではないということだろう。その人の行く道を見守り、選択を受け入れつつ、次に助けるチャンスが来たときに備えて、自分は知識を蓄える。どうやら、それしかできないらしい。

1.論理的な思考が存在しない"善"
2.助けたい気持ちを正しく表現するための知識や話し方、支援策の引き出し、傾聴
3.タイミング

このすべてを備えてこそ、理想の人助けが達成されるのかもしれない。実践するにはかなり難しい結論になってしまった感があるけどまあ仕方ない。そのくらい、自分の思い通りに人を助けることは不可能に近いのだ。

というわけで私は新一のセリフを、

「人が人を(とっさの判断で)助ける理由に、論理的な思考は存在しねーだろ。(※時間をかけられる場合は相手にとっての最善策を模索してベストなタイミングをはかるべし)

と解釈することとする。

余談

最後にちゃぶ台を返しておくと、なんてことない自分の趣味のような行為が誰かを救うこともある。支援側の意図は、被支援者には実は関係ないかもしれない。私の意図なんてちっぽけなものである。最終的にその人が幸せになればいいんだしね。なんだか自分で書いておいて無力感に包まれたので、とりあえず自分が幸せになることを考えようと思うcomoでした。

おじいちゃんだって、インクルーシブ。

小学生の時に、戦争はいけないことだ、多くの人が悲しむことだ、命は大切だということを学んだ。修学旅行では長崎に行って、悲惨な戦争の歴史についてレポートにまとめた。もちろん私は戦争に反対である。戦争を思わせるものに少しでも触れると、息が苦しくなるくらいに。

 

平和学習を受けたばかりだった小学6年生の私は、「国のために自らの命を賭すなんて馬鹿げている。」と祖父に投げかけた。私の祖父は戦争経験者だ。志願して兵となり、国のために働いた当事者である。私の無情な問いに祖父は黙っていたが、最終的に「そう、馬鹿やったとよ。」と言った。なんだかもやもやした。

その祖父の家からの帰り道、父から「おじいちゃんは馬鹿だから戦争に行ったわけじゃない」と言われた。「うん」と答えたが私には意味が分からなかった。

 

当たり前だが、戦時中の日本は今とは異なる教育を行っていた。戦争に行くことを決めた祖父がどんな思いだったのか。祖父はきっと、正しいとされていることに実直だったのだ。父が言っていたのは、「当時の社会思想に無理解なまま、現代の価値観で善悪を量るのはナンセンスであり、それによって1人の男性の尊厳を傷つけていることにも目を向けよう。」ということだったのかなあと想像している。

 

戦争の話は極端な例だが、現代でも似たようなことはたびたび起きている。そもそも「古い考え方」は、選択肢の少なかった過去において、個人の意思で選び取れる事ではなかっただろう。当たり前に、息を吸うように、家で、学校で、社会で、その人に定着してきた。私たちはつい、新しい考え方の正当性を唱えるために、過去の価値観に対して有無を言わせず”NO”を突き付けたくなる。だけど、古い考えを持った、その人”個人”が悪かったんだっけ…?諸行無常なんだってこの世はさ。。。

 

私自身、新しいことを考えるのが大好きだし、よりよく生きるための変革は必要だと思っている。だからこそ、これまで積みあがったものにも敬意を持ちたい。過去にない速度で社会の変化が起こる現代、存命中の人間の考え方の幅が、良くも悪くもめちゃくちゃ広いのだ。自由を語ろうとして保守層を排除しているだけでは、新たな保守が生まれるだけなんじゃないのかな。様々な人がいて、その考え方に行き着いた経緯を想像することが、本物のインクルーシブ社会実現につながると信じてる。

 

アップデートが必要なのは、ニューノーマルへの適合というより、目の前の相手への想像力や共感力のような気がしてやまない、という、私から極楽浄土にいるであろうおじいちゃんへの懺悔めいたエッセイでした。

ど素人なりに音楽と広報について考えてみました~学問を活かすには~

前回の記事、「ど素人なりに音楽と広報について考えてみました~広報の効果~ - comoの考察ブログ」では、本来、広報の果たすべき役割と、今のクラシックの広報の実情を改めて考えてみました。

今回は一歩踏み込み、消費者行動学をクラシック音楽に活かせるかな?という思考実験を行っていきます。

消費者行動学の世界

(先に断っておくと、私はクラシック音楽のお客さんを”消費者”と呼ぶのにはどちらかというと抵抗ある方の人間です。ただ、一般的な広報・PRではサービス利用者やお客さんを含めて”消費者”という言葉で括るので、便宜上この記事内では消費者と表記することをご了承ください。)

消費者との距離を測るとき、消費者がどこに立っているかがわからなければ、私たちはどちらに歩み寄ればいいのかわかりません。相手の位置を知るための学問が、消費者行動論です。消費者行動論は、消費者がモノやサービスを知ってからどのように購入までの行動を構築していくかをまとめた学問で、いろんな人が、様々な消費者行動モデルを提唱しています。今日は、超オーソドックス現代版消費者行動モデルと、最近注目を集めているコンテンツマーケティングでのモデルを紹介します。

●AISASモデル

AISASモデルは、電通が2005年に商標登録した消費者行動モデルで、購買行動を以下の5つの段階に分けたものです。

例えば
①新型のiPhoneが発売になることを認知
②今度のiPhoneは防水になると聞き、興味を持つ
③他の世代のiPhoneと比較したり、価格を確認したり
④購入
iPhoneが届いたらSNSでシェアし、口コミを投稿

こういったAISASモデルに沿った購買行動は、日ごろのお買い物で皆が無意識に行っていることだと思います。そして実は、それぞれの段階に合わせたAppleの広報戦略も、日常的に目にしているはずです。ぱっと思いつくだけでも、下記のような使い分けです。

①Attention…TVCM、記者発表、リスティング広告など
②Interesting…ランディングページ、ガジェット紹介記事など
③Search…Appleサイトでの機種比較ページ
④Action…分割購入や保証についての案内
⑤Shere…SNSや購入ページでの口コミ情報窓口機能

このようにAppleは、消費者の持っているであろう情報、次に起こしてほしい行動によって広告を使い分けており、ギャップを埋めるための複数の広報が用意されていることがわかります

●DECAXモデル

続いて、AISASモデルの10年後にあたる2015年に電通デジタルが提唱したDECAXモデル。こちらも、消費者の行動を5つに分けています。

一見AISASモデルと似たモデルですが、決定的な違いは、①Discoceryと⑤Experienceの部分です。

これまではCMや新聞折り込みで消費者から商品・サービスを認知(Attencion)してもらうアプローチから始まることが多かったのですが、DECAXモデルは、消費者が自ら情報を検索し、発見(Discocery)してもらうことを想定しています。ファーストアプローチとして、検索にヒットすることや、自社メディアを充実させることで発見してもらおうという考え方です。
また、Experienceは、サブスクリプションやアフターサポートを念頭に置いており、一度の消費活動で終わらせず、継続的な関係性の構築を狙っているコンテンツを想定したモデルとなっています。さすが新しいモデルって感じですな。

DECAXモデルでは、消費者に「見たい」「もっと知りたい」と思わせること、そして消費者が検索した際に、適切な情報を与えるための準備する必要があります。キャッチ―な見出しやSEO対策はこのモデルとの親和性が高い、ということですね。

消費者行動論forクラシック音楽

今回は2つの消費者行動モデルを紹介しました。私が伝えたいのは、消費者行動モデルを知ると、一口にお客さんといってもいろんな段階があるんだなということ、そして、いろんな種類の広告がつくれるんだなということです。

(度々例に出してすみませんが、)iPhoneのテレビCMを思い浮かべてみると、CMの中では、機能の詳しい内容も、価格も紹介しておらず、ただ、「かっこいい!」と思わせることに照準を合わせていることがわかります。とにかくかっこいいと思わせることに成功すれば、興味を持ったお客さんが自ら情報を得ようと自社ホームページに訪れてくれるからです。Apple社ほど細かくないにしても、クラシック音楽の場でも、いろんな形の広報を打っていき、各段階のギャップをひとつずつ埋めていった方が良いのでは?と思うのです。

クラシックコンサートのチケット購入をAISASモデルを当てはめて考えてみましょう。コンサートのチラシを見た時、クラシック慣れしている人はコンサートを認知→興味→調査の段階まで、何の疑問も持たずに進むことができ、いきなり内容をみて購入を判断する、ということになります。一方、クラシックコンサートに馴染みがない人は、コンサートの存在を認知したとしても、自分との関係性が薄いため、興味の段階に進むフックがない。もしくは調査する手がかり、人脈、比較対象を持っていないため、購入につながりにくい、と推測できます。

クラシックコンサートも、新規に呼びかけたい場合は、手始めに”引っかかる広報”を作ってみるのはありじゃないかなと思います。お客さん自身とクラシックの世界をつなげるようなワードを選び、ツイートや投稿をする、という感じです。クイズなどアンケート機能を使った広報や、かっこいい動画、イラスト、印象的なフレーズなどを出していき、情報を先行させない広報をたくさん出していきます。もちろん、その後の導線を用意し、詳細な情報にアクセスできるよう準備をしておく必要がありますが。

ともあれ、消費者に対して階段状に広報を用意すること、すなわち各層に合わせたギャップ解消を意識することで、購入までの導線をつくることができるのです。

もうひとつ、消費者行動論を取り入れることで期待できるのが、単純接触効果です。単純接触効果は心理学の入門編で出てくる効果なのでご存知の方も多いかと思いますが、「何回も会ってるうちに好きになってきちゃった〜〜!」というあの効果です。
チラシという形でのみ広報する場合、対象とする消費者は"調査"や"確認"の層であり、接触する回数は基本的に1回となります。対象とする層それぞれに広報を用意し、広報チャネルもSNSや動画、雑誌、メディア掲載など複数に網を張ることで、お客さんは情報に何度も出会い、理解が深まる可能性が高まります。(特にインターネット広告の多くはエンゲージメントをもとにアルゴリズムでまた接触するように設計されていますので、より接触回数を増やすことが期待できます。)

このように、消費者行動論の中身をすべて理解しなくても、そういう考え方があるということを知るだけで、グッと広報の幅が広がると思います。広報のネタ探しに困った方は、消費者行動論をググってみるといいかもしれません。

6.おわりに

以上、思いつくままにタイプしてきましたこの記事ですが、要点はこんな感じです。

・広報は愛のコミュニケーションだ
・相手を思いやるには、ギャップを知るのが大事
・従来のチラシは、すでに詳しい人に向けての広報だった
・消費者行動論は相手とのギャップを体系的に捉えられる
・お客さんとのギャップに合わせた広報は、結果的に広報の総数が増えるので単純接触効果を得られそう

余談ですが、”広報の幅”と”一般に迎合すること”は切り分けて考える必要があります。コンテンツ自体が大衆化されると懸念する方も多いのですが、個人的には、それは分けて考えてほしいところです。広報に幅をもたせることは、自分の音楽を適切に届けるという意味で効果を発揮しますが、これも音楽や音楽家の振る舞い自体にポリシーを持ってこそです。やはり自己理解は不可欠ですね…。これはブランディングも絡んでくる話だろうなあ…(遠い目)

最初に申し上げた通り、私はプロの広報担当者でもない、大学の時にちょっと勉強しただけの人です。今回の記事で書いたことは広報の超上澄みでしかありません。クラシック音楽というめちゃニッチな世界とそのほかの世界の間にいる私だから、伝えられることがあるかなと思って書いてみました。これを広報活動について調べるきっかけにしていただけたらとっても嬉しいです!

最後までお読みいただきありがとうございました。