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音楽、文化政策、好きな本など

おじいちゃんだって、インクルーシブ。

小学生の時に、戦争はいけないことだ、多くの人が悲しむことだ、命は大切だということを学んだ。修学旅行では長崎に行って、悲惨な戦争の歴史についてレポートにまとめた。もちろん私は戦争に反対である。戦争を思わせるものに少しでも触れると、息が苦しくなるくらいに。

 

平和学習を受けたばかりだった小学6年生の私は、「国のために自らの命を賭すなんて馬鹿げている。」と祖父に投げかけた。私の祖父は戦争経験者だ。志願して兵となり、国のために働いた当事者である。私の無情な問いに祖父は黙っていたが、最終的に「そう、馬鹿やったとよ。」と言った。なんだかもやもやした。

その祖父の家からの帰り道、父から「おじいちゃんは馬鹿だから戦争に行ったわけじゃない」と言われた。「うん」と答えたが私には意味が分からなかった。

 

当たり前だが、戦時中の日本は今とは異なる教育を行っていた。戦争に行くことを決めた祖父がどんな思いだったのか。祖父はきっと、正しいとされていることに実直だったのだ。父が言っていたのは、「当時の社会思想に無理解なまま、現代の価値観で善悪を量るのはナンセンスであり、それによって1人の男性の尊厳を傷つけていることにも目を向けよう。」ということだったのかなあと想像している。

 

戦争の話は極端な例だが、現代でも似たようなことはたびたび起きている。そもそも「古い考え方」は、選択肢の少なかった過去において、個人の意思で選び取れる事ではなかっただろう。当たり前に、息を吸うように、家で、学校で、社会で、その人に定着してきた。私たちはつい、新しい考え方の正当性を唱えるために、過去の価値観に対して有無を言わせず”NO”を突き付けたくなる。だけど、古い考えを持った、その人”個人”が悪かったんだっけ…?諸行無常なんだってこの世はさ。。。

 

私自身、新しいことを考えるのが大好きだし、よりよく生きるための変革は必要だと思っている。だからこそ、これまで積みあがったものにも敬意を持ちたい。過去にない速度で社会の変化が起こる現代、存命中の人間の考え方の幅が、良くも悪くもめちゃくちゃ広いのだ。自由を語ろうとして保守層を排除しているだけでは、新たな保守が生まれるだけなんじゃないのかな。様々な人がいて、その考え方に行き着いた経緯を想像することが、本物のインクルーシブ社会実現につながると信じてる。

 

アップデートが必要なのは、ニューノーマルへの適合というより、目の前の相手への想像力や共感力のような気がしてやまない、という、私から極楽浄土にいるであろうおじいちゃんへの懺悔めいたエッセイでした。