comolog

音楽、文化政策、好きな本など

「人が人を助ける理由に論理的な思考は存在しねーだろ」を考えてみる。

タイトルの通り、今日も今日とて名探偵コナンの話から始めますすみません。

私がコナンで最も好きなシーンのひとつ。

なんやかんやあった日、殺人犯の命の危機を助けてしまった蘭ねーちゃん。(しかも同じ日に2人も)
自分があの時殺人犯を助けなければ、被害者は亡くなることはなかったと思い詰める蘭ねーちゃん。
しかも殺人犯から「思い(殺人)を遂げさせてくれた彼女に感謝」とか「どうして俺を助けた?」とか嫌味を言われる蘭ねーちゃん。半ベソである。

その時、新一が放った台詞。

「人が人を殺す動機なんて知ったこっちゃねーが、人が人を助ける理由に、論理的な思考は存在しねーだろ?

言わずと知れた、NYのゴールデンアップル事件である。(コミック34〜35巻参照。)初めて読んだのは小学生くらいだったと思うが、読む度に当時シビれた記憶が蘇る。

人を助ける、幸せにする、というと聞こえがいいが、私は手を差し伸べられても、素直に助けてもらおうとしなかったこともあるし、私が差し伸べた手を弾き返されたこともある。

「人を助ける」ってどういうこと?もし仮に「正しい"人の助け方"」があるんなら、それはどういう方法なんだろう。

人を助けることについていろんな人に聞いてみた

私の周りには、誰かを支援する仕事の人が多いので、手当たり次第に「助けを拒否された時」について話を聞いてみた。回答は以下の通り。

Aさん「相手が求めている時に助けることが大切」
Bさん「助けることは自己満足でもいい。手を差し伸べないよりずっといい」
Cさん「ある程度は助けずに見守ることが、かえってその人にとって最短距離になることがある」
Dさん「選択肢の1つを提示するつもりで手を差し伸べるから、フラれても気にしない」
Eさん「comoからは不幸に見えるかもしれないけど、その状況のままでいたい人もいる」
Fさん「最終的にその人が幸せになるんなら、必ずしもcomoの助けにのらなくてもいいでしょ」

ふむふむ。
どれも的確で大いに納得させられる。

ていうか皆さんやはり普段からよく考えていらっしゃるのだろう。
支援って奥深い。それぞれ深掘りする必要がありそうだ。

私の頭の中の(脆弱な)カント

例えば、子どもが1人で道端で泣いていたら、どうしたの?と声をかける。白い杖をあげている人がいたら、何か手伝いましょうか?と声をかける。それはもう私にとって脊髄反射的なことだ。確かに論理的な思考は存在しない。私の頭の中のカントさんが「そうせよ。」と命じるからだ。蘭だって、無条件に殺人犯を助けたんだよね。

でも、私の脳内カントさんは非常に脆い。助けねば!と思った相手に迷惑がられると、助けようと思った気持ちって迷惑だったのかな…などとクヨクヨした思考が生まれる。私が「声をかけよう」と思ったのは、実は私のためでしかなかったということをまざまざと見せつけられるのである。自分の助けを喜ぶと思ったか?喜ぶだろうと期待していたから、ショックなんだろ?という自分が現れる。

残念ながら新一は、人助けに失敗した時の心の持ちようについての名言は残していない。というわけでもう一度、カントさんを訪ねる。

善は見返りを求めてはいけない、と彼は言う。そして、その結果その人が助かるかどうか、自分が助けることができたのかどうかに囚われるのだって、カントさん的にダメらしい。効果・効能が行為の動機になってちゃ、それは自律ではないんだ、カントさん的には。

私はカント哲学が結構好きだけどいつも定言命法に従える私ではない。欲求はあるよ、人間だもの。見返りが欲しいわけじゃないが、自分にできることがありそうなら、手伝いたいと思ってしまう。なまじっか自分が助けたせいで、その人や周りが苦しむことになるのは避けたい。

助けられる側の都合

待て待て。助けられる側にも都合はある。
助けられる準備が整っていないかもしれない。助ける側の勝手な道徳心押し付けられても、助けられる側だって迷惑ですよ。助けられる準備が整っていない場合にはまず、助けられる準備をするための、別の助けがいる。私は妊娠中、たくさんの人に助けられた経験がある。が、最初は到底受け入れられず、自分が弱者扱いされるのが不本意で泣いたこともある。

自分の体のことだから自分で解決したい。
私を見くびらないでよね、もっとできる。
今の状況で満足してるんだから援助不要。

こんな気持ちがあるうちは、助けられるのなんてまっぴらごめんなわけだ。気持ちが変わるには時間を要するし、まるっと受け入れてくれる人に接触し続けないと、自分を受け入れることはできない。しかも、あえて助けを求めない姿が傍から見て強がりであろうと、それで本人が幸せならまあそれでもいいって話でもある。

助けたい相手が助けを必要としていないと助けることかできないのが実情だ。助けたい気持ちだけで助けられるもんだったら苦労はしない。

持てる知識をいつ使うか

もうひとつ、「人を助けること」で思いつくコナンのシーンがある。

松茸狩りにやってきた少年探偵団。光彦と哀ちゃんがみんなとはぐれてしまい、灰原が足首を捻挫した時のことだ。咄嗟に光彦がタオルを使って包帯を作り応急処置。「コナン君がボクにこうやってくれたんです…彼、何でも知っててスゴイですよね…」という光彦。(かわいすぎる)

そこで灰原さんのこの台詞。

「バカね…大切なのはその知識を誰に聞いたかじゃなく、どこでそれを活用するか…今のあなたは私にとって最高のレスキュー隊員よ!ありがと…」

はぁー。哀ちゃん素敵。(コミック28巻参照。)

光彦は自分の知識を適切な時に使うことができた。これもまたひとつ大切な能力だ。持っていても使うことができなければ意味がないし、相応しい時ってものがある。こんな支援がありますよーと言っても、それが耳に入る時と入らない時があるのだ。相手の様子を受けて、響くタイミングで伝えることも重要そうだ。助けられる側の都合もさることながら、助ける側の知識の使い方とタイミングにも左右される。

何もしないという援助

興味深いのが、前述の「何もしないで見守る」というCさんの意見だ。何もしないというのは、見捨てるという意味ではない。結局、自分で見つけた道だけが本人を救うのだ、という考えである。宿題しなさい!と言われてやる宿題より、自分から始めた宿題の方が大抵楽しくやれるもんだ。

この道は自分でみつけたんだ!と思うことができれば、自分でどんどん進むことができる。誰かに指示された近道を嫌々進むより、遠回りでも自主的に進んだ方が、最終的に早く解決に向かうこともあるよね。そして自主的に動いていれば、必要な助けを自ら望めるようになる。その時に、適切な援助ができればいいんじゃないか。

なるほど、エンパワーメントである。なんだかかなり正解に近そうだ。支援者は、求められた時に力になれるよう準備をしておくことが、なによりの支援となるってことか。

ただしこれは、蘭ねーちゃんのように一刻の猶予もないような状況ではなかなか取れない選択だ。それに、課題を認識し、向き合おうとしている人にのみ有効そう。頑張りすぎて壊れてしまう人もいる。うーん、その塩梅が難しそうである。正確な見守りができないと。

人助けに関する結論

結論と言いつつ、こんな大きな問いを演繹し続けてしまったので結論なんてない。だが、文章には結論が必要なので考えをまとめてみよう。まず、とっさに助けたいと思って、助けてしまうのは人間の根源的な「善」なのかもしれない。だけど、とっさの出来事ではない時には、助けたいという支援者側の気持ちの前に、被支援者の助けられたい気持ちがあって、はじめて人を助けられるようだ。

ましてや、私1人の力で誰かを救おうなんて、相当難しいし、助けられると思うなんて大変おこがましいことだ。

それを頭に刻み込み、手を差し伸べてみる。それでも拒否されるのなら、今がその時ではないということだろう。その人の行く道を見守り、選択を受け入れつつ、次に助けるチャンスが来たときに備えて、自分は知識を蓄える。どうやら、それしかできないらしい。

1.論理的な思考が存在しない"善"
2.助けたい気持ちを正しく表現するための知識や話し方、支援策の引き出し、傾聴
3.タイミング

このすべてを備えてこそ、理想の人助けが達成されるのかもしれない。実践するにはかなり難しい結論になってしまった感があるけどまあ仕方ない。そのくらい、自分の思い通りに人を助けることは不可能に近いのだ。

というわけで私は新一のセリフを、

「人が人を(とっさの判断で)助ける理由に、論理的な思考は存在しねーだろ。(※時間をかけられる場合は相手にとっての最善策を模索してベストなタイミングをはかるべし)

と解釈することとする。

余談

最後にちゃぶ台を返しておくと、なんてことない自分の趣味のような行為が誰かを救うこともある。支援側の意図は、被支援者には実は関係ないかもしれない。私の意図なんてちっぽけなものである。最終的にその人が幸せになればいいんだしね。なんだか自分で書いておいて無力感に包まれたので、とりあえず自分が幸せになることを考えようと思うcomoでした。